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日本刀のような包丁

10月 4, 2021 • admin

和包丁に日本刀をつくるための技術が活かされていると言いますと驚かれる方もいらっしゃいますが、皆さんがご家庭でご使用になられている包丁のなかでも、「本焼き包丁」と呼ばれる和包丁が日本刀の製造技術を引き継ぐ存在として知られております。

一言で「和包丁」と述べましても、その材質によって呼び名が異なってくることをご存じですか。和包丁の材質を大きく分類していきますと「鋼」「鉄」「ステンレス」が主に使用されているようです。

「鋼」を用いる本焼き包丁は、純度の高いものが使用されるため、その製造は大変むずかしいとされているようです。さらに良い本焼き包丁をつくるためには、それなりの技術が職人さんに求められてくると言われております。

日本独自の刀剣である日本刀の技術が引き継がれているのが「本焼き包丁」であるとされ、手にする側にも取り扱うための技術を要するとも言われているそうです。

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伯耆守信高

9月 2, 2021 • admin

伯耆守信高は、永禄六年、美濃国の生まれ。江戸初期に尾張国で活躍した刀工である。天正十九年、関白豊臣秀次の取り成しにより「伯耆守」を受領し、この後、累代が伯耆守を受領している。

「相模守政常」「飛騨守氏房」の二人を合わせて「尾張三作」と称される。美濃国で技術を磨き、慶長十年、名古屋城築城と同時に名古屋へ移住した。同時期に美濃国から尾張国へ移住した集団を「尾張関」と呼称する。

伯耆守信高は、「尾張関」の中心的人物で、尾張藩お抱え鍛冶として尾張徳川家に仕えた。作風は、戦国の遺風である質実剛健を残しつつ豪華さも取り入れた作風となっている。

刀文は沸本位でありながらも、互の目乱れも多用している。 代表作は、重要刀剣 初代伯耆守信高の制作「槍 銘 伯耆守藤原信高」特別保存刀剣 三代伯耆守信高の制作「刀 銘 伯耆守藤原信高」などがある。

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獅子貞宗

8月 2, 2021 • admin

「獅子貞宗」は、相州貞宗作の脇差。貞宗は、鎌倉末期、相模国の刀匠。一説には、岡崎五郎入道正宗の子、もしくは、養子といわれている。銘「獅子貞宗」の由来は、獅子の目貫の拵えになっているところによる。

豊臣秀吉以前の来歴は不明だが、豊臣秀吉の所有となり名刀揃いの一之箱に収蔵されていた。本阿弥光徳が描いた刀絵図が残っている。大坂夏の陣で焼き刃となったが、徳川家康の命により越前康継が再刃した。

「駿府御分物帳」によると、徳川家康の薨去後の形見分けで、御三家紀州徳川家初代徳川頼宜に与えられた。後に徳川頼宜の三男、伊予西条藩初代松平頼純が継承した。伊予西条藩松平家が手放した後は、個人所有となっている。

刃長は、一尺二寸五分の脇差。刀姿は、平造、三つ棟、広い身幅で重ねが厚い。僅かに反りがある。鍛えは、板目で杢交じり、地沸がつき、地景入り。刃文は、浅い湾を基調とし互の目交じり、ところどころ砂流しかかり、足入り。わずかな金筋かかる。茎は、生ぶで無銘、焼き身であったため鑢目は不明。

「獅子貞宗」の最大の魅力は、その見事な彫といわれている。表裏には太い樋を掻き流しがあり、表の樋の中には三鈷柄の倶利伽羅剣(剣巻き竜)、裏の樋の中には三鈷剣の浮彫りがある。

「獅子貞宗」は再刃ながら、「大坂御物」「駿府御分物」「享保名物」の三拍子が揃っており、名刀の誉れが高い。

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日本刀の魅力

7月 3, 2021 • admin

現在、特別な許可を必要とする日本刀を作りでありますが、日本刀を作る職人たちを「刀工」と呼ぶそうです。

「刀工」の他にも、「刀鍛冶」「刀匠」などとも呼ばれておりますが、日本刀を作る工程のなかでも鉄の鍛錬や刃の焼入れに関しては「刀鍛冶」、刃の表面を研ぐ人々を「研ぎ師」、鞘(さや)など刀を収める装具や金具に携わる人々を「鞘師」などとも呼んでいたそうです。

日本国内において日本刀を作るとなると、武用や美術品として古来からの伝統的な日本刀づくりに基づいてつくられることになります。現代の職人たちが伝統的な日本刀を制作する道しるべとしているものは、江戸時代からの「刀工」たちの記録によるものなのだそうです。

それ以前の日本刀づくりに関する記録がみつかっていないことから、江戸時代以前の時代に作られたとされる刀剣の数々は、ミステリアスなベールに包まれているのです。日本刀の魅力は、その美しさをつくり上げるための高度な技術が未だにすべてが解明されていないところにもありそうです。

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備前伝

6月 4, 2021 • admin

「備前伝」・・・平安時代後期以降、備前地方(岡山県南東部)で発生した刀匠集団による伝法。

明治の新々刀期まで続く流派。各時代の流行を取り入れるのがうまく、大いに繁栄した。

姿は茎のすぐ上から反りが始まる。地肌は板目に杢目を交えて良く詰み、細かな地沸が厚くつついている。また映りと呼ばれる刃文の影のような働きが出るのも備前伝の特徴とされる。刃縁の粒子は細かく輝く。帽子は乱れ込んで小丸に返ることが多い。

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小太刀

5月 4, 2021 • admin

日本刀には、太刀のほかにもいくつかの刀があります。
小太刀は、短い太刀であって、脇差の別名ではありません。
長さとしては、太刀よりは短く、脇差よりは長いのです。
そして、作りとしては、刀身に反りがあり、斬るための刀です。
また、剣術に「小太刀」の戦い方がありますが、どちらかというと女性用の剣術とされています。
つまり、短い太刀として、女性にも扱いやすい刀であったのでしょう。
なお、小太刀の起源を見ますと、戦用ではなく儀式用であったのではないかと言われています。
昔の元服は12歳ぐらいでしたので、その際の子供用の刀だったとも言われています。

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新撰組一の天才剣士「沖田総司」

4月 4, 2021 • admin

歴史上の人物、沖田総司は、新撰組一の天才剣士などと思う呼び声高かったようです。新撰組の一番隊組長として時代を駆け抜けた彼は、27年間の短い月日をどのように駆け抜けたのでしょうか。

その性格はフレンドリーで人見知りのない人柄であったなどとも言われております。師匠である近藤勇に対しても、敬う気持ちがとても強かった人物像であるようです。幼いうちに両親を亡くしているため、師匠である近藤勇の養父であった近藤俊輔のもとに引き取られることになったようです。

ここで、新撰組をなす近藤勇土方歳三らと出逢う運命であったようです。沖田総司は、近藤勇らとの出会いの中で厳しい剣術を学び、彼らと共に武士としての生き方を模索していたようです。

このような師弟関係の中で、近藤勇が開国しそうに突き進む中、沖田総司は近藤に従い、 天才剣士として新撰組を率いてもいたようです。

沖田総司は、結核を患うことが原因となり短命であったとされているようです。

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佐々木小次郎

3月 24, 2021 • admin

剣聖宮本武蔵との対決「巌流島の決戦」で有名な巌流佐々木小次郎だが、彼の生涯については数多くの謎に包まれている。そもそも、彼の実在を疑う向きもある。世に伝わってきた凡その見解としては、戦国期末から江戸時代初めの剣豪だと見られている。出自も、越前国浄教寺村出身説、豊前国田川郡出身説がある。富田勢源に中条流を学んだ。10代になると諸国で武者修行し、16歳で秘剣「燕返し」を体得した。中条流では、主に一尺五寸ぐらいの小太刀を用いるが、長身だったといわれる佐々木小次郎は師匠勢源より三尺余りの大太刀を用いた修練を命ぜられた。佐々木小次郎の愛刀といえば、身の丈程もある長剣通称「物干し竿」といわれた備前長船長光である。この長剣を背負い、肩越しに抜刀し、下段からせり上がるように振り抜く。飛ぶ燕でさえその切先から逃れられなかったことから「燕返し」名付けられたといわれている。

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名匠・正宗

2月 4, 2021 • admin

少しでも日本刀に興味のある人なら、「正宗」の名を知らない者はいないのではないだろうか。鎌倉時代末期に相模国(神奈川県)鎌倉で活躍した刀匠といわれるが、その経歴には謎が多い。

正宗は、在命中はそれほどの評価を得ておらず、死後、豊臣秀吉によってその名が広まり、諸大名がこぞって正宗を求めた。あまりの人気に正宗の数が足りなくなり、各地で偽物が作られたといわれている。明治時代には、武将に与える恩賞に困った秀吉が、刀剣の鑑定家・本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)と共謀して作り上げた虚構のブランドであり、正宗は実在しなかったという説がささやかれたこともある。 名匠といわれるほどの人物には逸話が多いものだ。

正宗にまつわる逸話をもう一つ紹介しよう。 正宗の父も刀匠だった。あるとき父は、京都に修業の旅に出たが、その留守中に火事を出し、家を失う。 正宗と母は、父を捜しに京都に向かうが、その途中、母も死んでしまった。残されたのは、唯一の手がかりである、父の残した日本刀だけ。 父を捜し出せぬまま、正宗は父と同じ刀匠の道に進むこととなった。ある日、師匠・行光が、正宗が大切にしている日本刀にふと目をやると、なんとそれは、自分が鍛えたものであった。父と子は、こうして再会したという。また、このとき父は、京都で再婚していたのだが、義母となる相手の女は突然現れた前妻の子の正宗に家の財産をとられるのではと心配し、正宗につらくあたった。しかし正宗は、義母が病気で倒れたときには水垢離(みずごり)をして快癒を祈り、暴徒に襲われた義母をかばって背中を斬られたこともあったといわれている。これらの逸話のほとんどは、後世の人聞が作った作り話とする説もあるが、たとえそうであっても、伝え聞く逸話は正宗を讃える話ばかり。努力と親孝行の人であったのは間違いないのではないだろうか。

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茎(なかご)の形

1月 4, 2021 • admin

刀剣の各部分の名称や役割を知ることで、日本刀を深く理解することができます。刀剣のうち柄に収まる部分を茎(なかご)と呼んでおり、目釘穴を使って取り外しをするために目にする人も多いかもしれません。ここに刀工の銘が刻まれており、やすりがけがされています。茎全体の仕立て方、茎尻の形状、銘を切っている位置はそれぞれ異なっています。作者や流派によってなど、理由はさまざまです。茎の形もさまざまな種類があります。まず、一般的な茎は「普通形」と言われています。一般的に知られている茎は、この形をしています。次に、雉子股形(きじももがた)と呼ばれる形です。平安時代から鎌倉時代にかけて、太刀に見られる形状です。その名前の通り、鳥の股の形に似ていることから名付けられています。なぜこのような形になったかというと、もともと衛府太刀拵の柄は、表と裏を俵鋲で留めていました。その部分を削って形を作ったために、このような特殊な形になったと言われています。次に、振袖形(ふりそでがた)です。茎の元先の幅に差がなく、真ん中の辺りでわずかに曲がっています。この形が振り袖を連想させることからの呼称です。鎌倉時代の短刀によく見られる形状と言われています。次に舟底形(ふなぞこがた)と言われるものです。茎の刃方のラインがゆったりとした曲線を描いており、茎先が細くなっています。舟底の形に似ていることからきています。相州系の刀工に多く見られると言われている茎です。最後は、鰱腹形(たなごばらがた)です。形としては、茎の下の部分が細くなっており、魚のタナゴに似ていることから呼ばれています。村正や、その一門に見られる特色がある茎と言われているそうです。

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