狐ケ崎為次は古青江派の刀匠、為次の作万である。柄、鞘などの採が 黒一色で統一された渋い終えで実用を重視した頑丈な作りをしている 。 この刀は吉川 (吉香、 古河ともいう)小次郎友兼の刀である。友兼は「梶原景時の変」において景時の三男をこの刀で討ち取った。 梶原景時はもともと平氏側の人間であった。しかし源氏の棟梁の頼朝が窮地に陥った時かくまって助けたことで、後に頼朝が将軍となった際に高い地位で取り立てられた。景時は優秀な武人であると同時に教養に優れ官僚としても有能だったので、頼朝や次代の頼家に重用されたが、 他の御家人からはそれが良く思われなかった。

景時は排斥運動の迷判状を突き付けられ、 一族郎党を連れて鎌倉を去った。その後、駿河の国の狐ケ崎で吉川氏をはじめとする在野の武士団と戦闘になり、 祭時とその 一族は滅んだ。狐ヶ崎為次という刀の名前 はこの景時最期の地の名を取ったものである。