鬼切国網は元々「髭切」と呼ばれ、「膝丸」と対になる兄弟刀として 源氏に代々伝えられてきた。この 二振りは平安中期に源満仲が作らせ、 のちに頼光の四天王、渡辺綱の刀とな った。ある夜、渡辺綱は 一条一反橋にてうら寂しい美女と出会う。だが女の正体は妖鬼、茨木童子だった。美女から醜悪な魔物に変化した茨木章子は 網を掴んで空を飛び、愛宕山にさらおうとした。だが綱は童子の腕を斬り落とし、事なきを得たという。以降、髭切は鬼切の名で呼ばれた。 その後、鬼切は源氏の血をひく新田氏の新田義貞の手にわたった。新田氏は義貞の代には零落していたが、圧政に耐えかねて鎌倉幕府に蜂起した。当初百数十人だった兵は数万に膨れ、 ついには幕府を倒すに至つた。鬼切はこのときに手に入れたという。義貞はこの鬼切囲網と北条氏の宝万である鬼丸囲網の二万を侃用して 合戦に赴いたと太平記は伝えている。