刀工と呼ばれる刀の作り手が現れたのは、平安時代の末期から、鎌倉時代の初期にかけてと言われています。作者を明確にできるようになった存銘作が見られるようになったのも、この時期からです。備前国には包平(かねひら)、正恒(まさつね)、友成(ともなり)、山城国には三条宗近、伯耆国では安綱などの有名な刀工が多く輩出されました。これらの人々は、日本刀工の系譜の始祖となったと言われています。ここから門人や子孫が他国にも移住するようになり、刀工集団として大きなものとして発展していきました。鎌倉時代に入ると武士の勢力が拡大しており、争いも耐えませんでした。自然と刀剣の需要が高まってきて、刀工たちもさまざまな工夫をして要求に応えてきました。当代には多くの名工が出現したために、刀工の間に自然と流派が定まってきました。作品は太刀だけではなく、薙刀や短刀も作られるようになったそうです。茎には作者の銘だけでなく、国名や居住地名、紀年銘を刻むことも多くなっていったと言われています。鎌倉時代の刀工は、有名なところから正宗を頂点とする相模鍛冶、正恒と友成を代表とする備前鍛冶が大きな二本柱とも言われています。相模国は新藤五国光、行光などの名工が世に出ましたが、反映の期間は非常に短いと言われています。肥前国は長船、福岡、吉井、和気など幅広い範囲で活動していました。特に福岡と長船の地では大きく活躍しており、平安時代の後期から室町時代に至るまでのおよそ数百年、刀剣の製作を続けてきたと言われています。これは備前国の北部で良質の砂鉄が採掘できること、吉川沿いでは炭や水を運ぶための交通が使いやすかったという好条件が揃っていたためとも言われています。