Skip to Content

愛刀家になるためには

1月 4, 2022 • admin

「日本刀」は、日本を代表するような美術品であり工芸品であり武器であります。日本刀に関する知識や技術をもたない素人が簡単に趣味にできるような世界ではないのかもしれません。とは言いましても、はじめから名刀とされるような高価なものを収集するのではなく、その楽しみ方や所持するために必要とされる法律(銃刀法)などから詳しくなってみるのはいかがでしょう。日本刀は先に述べましたように、美術品でありながら武器であります。時代をさかのぼった先人たちは、合戦で用いたり、街を歩く際の護身として身に付けていたものであります。現代人が日本刀の美しさを美術品として収集するうえで扱い方をまちがうことは、危険をともなうことでもあるようなのです。

Categories: Uncategorized

来国俊

12月 4, 2021 • admin

来国俊は、鎌倉末期、来派の刀工である。通称は「孫太郎」と称される。古くから「二字国俊」と同人か別人かの論争がある人物であるが、作風の相違から別人説が有力になっている。

別人説によれば、曾祖父・来国行、祖父・来国吉、父・二字国俊との系譜になる。作風は、豪壮な鍛えを得意とする「二字国俊」と違い、身幅が細く切先は小さめの刀姿で、刃文は直刃が多く、「小互の目」や「小乱れ」交じりの優美な作刀を得意としている。

特に「区」から鋒の先まで狂いもゆがみもない直刃は、来国俊でしか鍛えることができない神技といわれ「来派」隆盛の基を築いたといわれている。

更に、この時代としては稀有な八十五歳という長寿を保ち、子・「来国光」をはじめとする多くの「来派」の門弟の育成に努めた。代表作は、国宝「小太刀 銘 来国俊」日光二荒山神社所蔵。国宝「短刀 銘 来国俊/正和五年十一月日」

Categories: Uncategorized

二字国俊

11月 4, 2021 • admin

二字国俊は、鎌倉後期、山城国「来派」刀工である。来国行の子。銘は「国俊」二字銘を切る。後世の「来国俊」と三字銘を切る国俊と区別するため「二字国俊」と称される。二字国俊と三字銘の来国俊は、古くから別人説と同人説がある。

別人説では、「二字国俊」が父、三字銘の「来国俊」が子といわれている。作風の違いからも別人説が有力となっている。同人説の根拠の一つになっているのが、「二字国俊」は銘を複数回変えて「六度変わり国俊」ともいわれていることである。

作風は、華麗な丁子乱れの地鉄と猪首切先の豪放な刀姿が特徴である。代表作は、国宝「太刀 銘 国俊」東京国立博物館所蔵。

重要文化財 愛染国俊「短刀 銘 國俊」刀身に愛染明王の毛彫が施されていることが通称の由来である。重要美術品 鳥飼(鳥養)国俊「小太刀 銘 国俊」戦国時代の書家・鳥飼(鳥養)宗慶が所持していたことが通称の由来である。

Categories: Uncategorized

日本刀のような包丁

10月 4, 2021 • admin

和包丁に日本刀をつくるための技術が活かされていると言いますと驚かれる方もいらっしゃいますが、皆さんがご家庭でご使用になられている包丁のなかでも、「本焼き包丁」と呼ばれる和包丁が日本刀の製造技術を引き継ぐ存在として知られております。

一言で「和包丁」と述べましても、その材質によって呼び名が異なってくることをご存じですか。和包丁の材質を大きく分類していきますと「鋼」「鉄」「ステンレス」が主に使用されているようです。

「鋼」を用いる本焼き包丁は、純度の高いものが使用されるため、その製造は大変むずかしいとされているようです。さらに良い本焼き包丁をつくるためには、それなりの技術が職人さんに求められてくると言われております。

日本独自の刀剣である日本刀の技術が引き継がれているのが「本焼き包丁」であるとされ、手にする側にも取り扱うための技術を要するとも言われているそうです。

Categories: Uncategorized

伯耆守信高

9月 2, 2021 • admin

伯耆守信高は、永禄六年、美濃国の生まれ。江戸初期に尾張国で活躍した刀工である。天正十九年、関白豊臣秀次の取り成しにより「伯耆守」を受領し、この後、累代が伯耆守を受領している。

「相模守政常」「飛騨守氏房」の二人を合わせて「尾張三作」と称される。美濃国で技術を磨き、慶長十年、名古屋城築城と同時に名古屋へ移住した。同時期に美濃国から尾張国へ移住した集団を「尾張関」と呼称する。

伯耆守信高は、「尾張関」の中心的人物で、尾張藩お抱え鍛冶として尾張徳川家に仕えた。作風は、戦国の遺風である質実剛健を残しつつ豪華さも取り入れた作風となっている。

刀文は沸本位でありながらも、互の目乱れも多用している。 代表作は、重要刀剣 初代伯耆守信高の制作「槍 銘 伯耆守藤原信高」特別保存刀剣 三代伯耆守信高の制作「刀 銘 伯耆守藤原信高」などがある。

Categories: Uncategorized

獅子貞宗

8月 2, 2021 • admin

「獅子貞宗」は、相州貞宗作の脇差。貞宗は、鎌倉末期、相模国の刀匠。一説には、岡崎五郎入道正宗の子、もしくは、養子といわれている。銘「獅子貞宗」の由来は、獅子の目貫の拵えになっているところによる。

豊臣秀吉以前の来歴は不明だが、豊臣秀吉の所有となり名刀揃いの一之箱に収蔵されていた。本阿弥光徳が描いた刀絵図が残っている。大坂夏の陣で焼き刃となったが、徳川家康の命により越前康継が再刃した。

「駿府御分物帳」によると、徳川家康の薨去後の形見分けで、御三家紀州徳川家初代徳川頼宜に与えられた。後に徳川頼宜の三男、伊予西条藩初代松平頼純が継承した。伊予西条藩松平家が手放した後は、個人所有となっている。

刃長は、一尺二寸五分の脇差。刀姿は、平造、三つ棟、広い身幅で重ねが厚い。僅かに反りがある。鍛えは、板目で杢交じり、地沸がつき、地景入り。刃文は、浅い湾を基調とし互の目交じり、ところどころ砂流しかかり、足入り。わずかな金筋かかる。茎は、生ぶで無銘、焼き身であったため鑢目は不明。

「獅子貞宗」の最大の魅力は、その見事な彫といわれている。表裏には太い樋を掻き流しがあり、表の樋の中には三鈷柄の倶利伽羅剣(剣巻き竜)、裏の樋の中には三鈷剣の浮彫りがある。

「獅子貞宗」は再刃ながら、「大坂御物」「駿府御分物」「享保名物」の三拍子が揃っており、名刀の誉れが高い。

Categories: Uncategorized

日本刀の魅力

7月 3, 2021 • admin

現在、特別な許可を必要とする日本刀を作りでありますが、日本刀を作る職人たちを「刀工」と呼ぶそうです。

「刀工」の他にも、「刀鍛冶」「刀匠」などとも呼ばれておりますが、日本刀を作る工程のなかでも鉄の鍛錬や刃の焼入れに関しては「刀鍛冶」、刃の表面を研ぐ人々を「研ぎ師」、鞘(さや)など刀を収める装具や金具に携わる人々を「鞘師」などとも呼んでいたそうです。

日本国内において日本刀を作るとなると、武用や美術品として古来からの伝統的な日本刀づくりに基づいてつくられることになります。現代の職人たちが伝統的な日本刀を制作する道しるべとしているものは、江戸時代からの「刀工」たちの記録によるものなのだそうです。

それ以前の日本刀づくりに関する記録がみつかっていないことから、江戸時代以前の時代に作られたとされる刀剣の数々は、ミステリアスなベールに包まれているのです。日本刀の魅力は、その美しさをつくり上げるための高度な技術が未だにすべてが解明されていないところにもありそうです。

Categories: Uncategorized

備前伝

6月 4, 2021 • admin

「備前伝」・・・平安時代後期以降、備前地方(岡山県南東部)で発生した刀匠集団による伝法。

明治の新々刀期まで続く流派。各時代の流行を取り入れるのがうまく、大いに繁栄した。

姿は茎のすぐ上から反りが始まる。地肌は板目に杢目を交えて良く詰み、細かな地沸が厚くつついている。また映りと呼ばれる刃文の影のような働きが出るのも備前伝の特徴とされる。刃縁の粒子は細かく輝く。帽子は乱れ込んで小丸に返ることが多い。

Categories: Uncategorized

小太刀

5月 4, 2021 • admin

日本刀には、太刀のほかにもいくつかの刀があります。
小太刀は、短い太刀であって、脇差の別名ではありません。
長さとしては、太刀よりは短く、脇差よりは長いのです。
そして、作りとしては、刀身に反りがあり、斬るための刀です。
また、剣術に「小太刀」の戦い方がありますが、どちらかというと女性用の剣術とされています。
つまり、短い太刀として、女性にも扱いやすい刀であったのでしょう。
なお、小太刀の起源を見ますと、戦用ではなく儀式用であったのではないかと言われています。
昔の元服は12歳ぐらいでしたので、その際の子供用の刀だったとも言われています。

Categories: Uncategorized

新撰組一の天才剣士「沖田総司」

4月 4, 2021 • admin

歴史上の人物、沖田総司は、新撰組一の天才剣士などと思う呼び声高かったようです。新撰組の一番隊組長として時代を駆け抜けた彼は、27年間の短い月日をどのように駆け抜けたのでしょうか。

その性格はフレンドリーで人見知りのない人柄であったなどとも言われております。師匠である近藤勇に対しても、敬う気持ちがとても強かった人物像であるようです。幼いうちに両親を亡くしているため、師匠である近藤勇の養父であった近藤俊輔のもとに引き取られることになったようです。

ここで、新撰組をなす近藤勇土方歳三らと出逢う運命であったようです。沖田総司は、近藤勇らとの出会いの中で厳しい剣術を学び、彼らと共に武士としての生き方を模索していたようです。

このような師弟関係の中で、近藤勇が開国しそうに突き進む中、沖田総司は近藤に従い、 天才剣士として新撰組を率いてもいたようです。

沖田総司は、結核を患うことが原因となり短命であったとされているようです。

Categories: Uncategorized